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東京地方裁判所 昭和59年(ワ)3124号 判決 1988年5月31日

原告 笠羽光太郎

原告 笠羽孝行

右両名法定代理人親権者母 笠羽良子

原告 笠羽良子

右三名訴訟代理人弁護士 藤平國数

被告 社団法人全国社会保険協会連合会

右代表者理事 鳩山威一郎

右訴訟代理人弁護士 中村光彦

右訴訟復代理人弁護士 田淵智久

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告笠羽光太郎及び原告笠羽孝行に対し、各金一七〇〇万円、原告笠羽良子に対し、金三五〇〇万円及びこれらに対する昭和五七年七月二九日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  訴外亡笠羽茂雄(以下「亡茂雄」という。)は、昭和五七年七月二八日午後四時一〇分ころ、農作業中に蜂に刺され、同日午後四時四〇分ころ、被告の開設運営に係る社会保険勝山病院(以下「被告病院」という。)に搬送され、医師野田暉夫(以下「野田医師」という。)らの診察・治療を受けた。

2  しかし、亡茂雄は、同日午後六時一八分、被告病院で死亡した。

3  亡茂雄は、アナフィラキシーショックにより死亡したものである。

右事実は、亡茂雄に係る次の事実によって明らかである。

(一) 亡茂雄は、当日午後四時一〇分過ぎころ、蜂に刺されたといって家に戻って来た。

(二) 亡茂雄は、原告良子に対し、「目がかすんできた。」と言った。亡茂雄の左脇腹の中央部には直径五センチ位の円形の赤い腫張が存在したので、原告良子はアンモニアを水に溶かして同部位に塗布した。このとき、亡茂雄の首筋には赤く蕁麻疹が出ており、冷や汗をかいていた(蕁麻疹の発症)。

亡茂雄は、浴室へ行き、農作業で汚れた手を洗い、体を拭いて居間へ戻ったが、そわそわして、右往左往し、落ち着きがなく、いらいらしているように見受けられた(不安感)。

一度は布団の上に仰向けに寝て、溜息をついたが、病院に連れて行ってくれと言い、息が苦しそうであった(呼吸困難)。

(三) 亡茂雄の父俊英が運転する自動車に乗るため、亡茂雄は原告良子に付き添われて家の外に出たが、乗車直前に崩れ落ちて、地上に倒れた。

(四) 病院に向かう自動車の中で、亡茂雄は、「苦しい。顔を叩いてくれ」と言い続けた(意識喪失の予感)。

(五) 被告病院に到着して、亡茂雄はストレッチャーで一階の救急室へ運び込まれた。亡茂雄はすぐ上半身を裸にされたが、左脇腹の蜂に刺された部分を中心として赤い円は大きく広がり、上半身は赤くなっており、顔も赤く(毛細血管の拡張)、亡茂雄は「息が苦しい、死んでしまう」と訴え、冷や汗を沢山かいていた。

(六) 亡茂雄は、昭和五〇年か五一年ころの夏、足の裏を蜂に刺されて、全身に蕁麻疹が出、大騒ぎしたことがあった。

4  亡茂雄は、被告病院の救急室において、医師らに対し、蜂に刺されたことを告げ、原告良子も、医師らに対し、蜂に刺された箇所と、蕁麻疹が出たこと及び前にも蜂に刺されたことがあると告げた。

5  野田医師らの過失

被告病院の野田医師らは、亡茂雄が蜂毒によるアナフィラキシーショックの状態にあったにもかかわらず、心筋梗塞と診断して、アナフィラキシーショックと診断しなかったが、これは次のとおり過失によるものである。

(一) 基礎的な問診の欠如

アナフィラキシーは、アレルギー(抗原抗体反応の結果、生体に病的過程をもたらすもの)の一種であり、Ⅰ型アレルギーに属するが、Ⅰ型アレルギー反応には素因(アトピー)が関与する。アトピーとは、正常人では起きない程度のごく少量の抗原の侵入でも抗体を作り出す遺伝的素因である。

アナフィラキシーは、抗原抗体反応による症状のうち、抗原侵入後急速に発症し、重篤でショック様の症状を来たすものをいう。初期症状は、顔面又は上半身の潮紅ないし蒼白、全身蕁麻疹、浮腫、不安感、頭痛、腹痛、下痢、失禁、手足のしびれ感、瞳孔拡大などであるが、重要症状は、循環系の虚脱状態であって、血圧低下、脈拍の頻数の減少であり、呼吸困難、喘息発作、全身痙れん、意識消失を伴うこともある。重篤な場合には、急速に死の転帰に至ることがある。

本件においては、蜂に刺されたとの主訴があったのであるから、医師は、患者について、薬疹の有無、アレルギーの有無、ショックの有無について問診をすべきであり、これが第一になされるべき最も重要な行為であった。この問診がなされていれば、亡茂雄がアレルギー体質であることが判明し、アナフィラキシーショックの診断とこれに対する正しい治療ができたはずであった。

また、心筋梗塞による胸の痛みは強烈で、発作の直後から始まるが、亡茂雄の症状は、次第に進行し、重篤となって行った。更に、亡茂雄は、息苦しさは訴えていたが、胸の痛みは訴えていない。これらについても、適切な問診がなされていれば、アナフィラキシーショックを心筋梗塞と誤診することはなかった。

ところが、被告病院の医師らは、妻良子の前記4の説明にもかかわらず、右説明を無視ないし軽視して、右のようなアナフィラキシーショックの可能性を想定した問診をせず、その結果、アナフィラキシーショックの診断をしなかった。

(二) 心電図のみによって急性心筋梗塞と即断

被告病院の医師らは、午後四時四五分ころ、亡茂雄の心電図の波形のみによって亡茂雄の疾患を急性心筋梗塞と診断し、アナフィラキシーショックを疑うことをしなかった。

しかしながら、心電図は、心臓の電気的生理の異常性を示すだけであって、アナフィラキシーショックにおいては、ショックによる冠状動脈灌流圧低下に伴い、心筋の虚血が惹起されることから、心電図上は心筋梗塞と同じ状態を呈することがしばしばある。

したがって、心臓の電気的生理の異常の原因は、心電図以外のものによって求めなければならず、心電図は、心臓の異常の原因究明の出発点でしかない。

ところが、被告病院の医師らは、この医学上の常識に反し、蜂に刺されたときの訴えを忘れた結果、心電図上の所見のみによって亡茂雄を急性心筋梗塞と即断し、心筋梗塞であれば顔が赤くなったり、まして蕁麻疹が出たりすることはないし、亡茂雄は心筋梗塞に伴う強烈な胸の痛みを訴えることもしなかったにもかかわらず、アナフィラキシーショックの診断をしなかったのである。

(三) アナフィラキシーショックに対する治療の欠如

右(一)(二)の過失により、被告病院の医師らは、亡茂雄のアナフィラキシーショックに対する治療をしなかった。

アナフィラキシーショックは、平滑筋の収縮と毛細血管の拡張を特徴とする。したがって、血管を収縮させ、血圧を上昇させる昇圧剤の注射が不可欠であり、エピネフリン(アドレナリン)の〇・一パーセント液〇・三ないし〇・五ミリリットルを上腕部に筋注又は皮下注射すべきであるが、重要なのは、昇圧剤の注射は一刻を争う迅速な処置たるを要することである。

本件において、亡茂雄は、午後四時四〇分ころ被告病院に到着し、午後五時一〇分に一階の救急室から四階の重症看護治療室に移されているが、四階へ移されたのは症状が急変したからであって、移送後の治療はすべて手遅れで無意味であった。

そして、一階救急室における三〇分間に、エピネフリン(アドレナリン)もノルエピネフリン(ノルアドレナリン)も全く使用されていない。被告は、医師らが一応アナフィラキシーショックを疑い、ショック状態に対する治療を行ったと主張するけれども、被告主張の処置は一般のショック症状に対する処置であって、昇圧剤の種類、点滴五〇〇ミリリットルの中に入れての緩徐な使用方法、ソルコーテフの使用方法など、いずれもアナフィラキシーショックに対する治療としては、ほとんど無意味である。

このように、被告病院の医師らは、アナフィラキシーショックを想定せず、その診断をしなかったために、アナフィラキシーショックに対する治療処置を執らず、亡茂雄を死に至らしめたのである。

6  原告良子は、亡茂雄の妻であり、原告笠羽光太郎及び同笠羽孝行は、亡茂雄の子である。

7  損害

(一) 葬儀費 一〇〇万円

原告良子が負担した。

(二) 逸失利益 五五二九万六七六一円

(1) 亡茂雄は、製紐業を営んでおり、昭和五六年度の収入は五二五万〇六七七円であるが、そのうち亡茂雄の寄与率は八〇パーセントと見込まれるので、亡茂雄の右営業による収入は年間四二〇万〇五四一円である。

(2) 亡茂雄は、死亡当時三五歳であったから、存命していればそれ以降六七歳までの三二年間稼働可能であり、亡茂雄の生活費として収入から三〇パーセントを控除したうえ、ホフマン方式によって亡茂雄の逸失利益の現価を算出すると、次のとおり五五二九万六七六一円となる(ただし、就労可能年数三二年の新ホフマン係数は一八・八〇六である)。

4,200,541(円)×(1-0.3)×18.806=55,296,761(円)

(3) 亡茂雄の死亡により、原告良子が二七六四万八三八〇円、原告笠羽光太郎及び同笠羽孝行がそれぞれ一三八二万四一九〇円を相続した。

(三) 慰謝料

原告良子 一〇〇〇万円

原告笠羽光太郎及び同笠羽孝行 各五〇〇万円

よって、原告らは、被告に対し、民法七一五条の不法行為に基づき、原告良子については三八六四万八三八〇円のうち三五〇〇万円、原告笠羽光太郎及び同孝行については一八八二万四一九〇円のうち一七〇〇万円及び右各金員に対する不法行為の日の翌日である昭和五七年七月二九日から各完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

(請求原因に対する認否)

1 同1の事実のうち、亡茂雄が、昭和五七年七月二八日午後四時四〇分ころ、被告病院に搬送され、野田医師らの診察・治療を受けたことは認めるが、その余は知らない。

2 同2の事実は認める。

3 同3の事実のうち、亡茂雄がアナフィラキシーショックにより死亡した事実は否認する。同人は心筋梗塞により死亡したものである。同3の(一)ないし(四)及び(六)の事実は知らない。同(五)の事実中、亡茂雄が被告病院の一階救急室に運び込まれたことは認めるが、その余は否認する。

4 同4の事実のうち、原告良子において亡茂雄が蜂に刺されたと告げたことは認めるが、その余は否認する。

5 同5の冒頭の事実のうち、亡茂雄について心筋梗塞と診断した事実は認めるが、その余は否認する。

(一)の事実のうち、アナフィラキシーについて、成書に原告ら主張のような記述があることは認める。ただし、「脈拍の頻数の減少」は「脈拍の頻数と細小」であり、「呼吸困難」の記述はない。その余の主張は争う。

被告病院の医師らは、ショック状態に対処しつつ、必要な問診を行っており、その結果、亡茂雄は以前蜂に刺されたことがあるがショック状態などの異常は起こらなかったと聞いている。

(二)の事実のうち、急性心筋梗塞との診断をしたことは認めるが、その余は否認ないし争う。亡茂雄は、被告病院に搬送された時点で左前胸部痛を訴えており、また左胸部・腹部に発赤・腫張はなく、全身に発赤や蕁麻疹様発疹などは認められなかった。

(三)は否認ないし争う。

6 同6の事実は知らない。

7 同7は争う。

(被告の主張)

本件診療の経過

1 昭和五七年七月二八日午後四時四〇分ころ、亡茂雄が勝山市消防署救急隊によって、被告病院に搬送される。

搬送時、脈拍八〇/分、呼吸二八/分、血圧七〇ミリHg、苦痛感、特に左前胸部痛の訴えあり、意識レベルやや低下。蜂に刺されたとのことであったが、左胸部・腹部に発赤、腫張なく、全身に発赤や蕁麻疹様発疹などは認めなかった。しかし、一応アナフィラキシーショックを疑い、一階救急室にてショック状態に対する治療を行う。

ここで行った治療・処置は、次のとおりである。

① 静脈路の確保

② 鼻腔カテーテルによる酸素投与(三リットル/分)

③ ポタコールR五〇〇ミリリットル(糖質・電解質輸液)と共に、ソル・コーテフ(副腎皮質ステロイド剤)五〇〇ミリグラムを点滴静脈注射

④ ポタコールR五〇〇ミリリットルと共に、イノバン(昇圧剤)を点滴静脈注射

⑤ ソル・コーテフ五〇〇ミリグラムを点滴セットの側管より静脈注射

⑥ 午後四時四五分ころから心電図のモニター開始、その結果、急性心筋梗塞と診断

⑦ 午後四時四五分ころ血圧測定六六ミリHg

2 ショック状態が改善しないため、午後五時一〇分ころ四階の重症看護治療室に担送する。

同室における経過は次のとおりである。

(一) 午後五時一〇分ころの症状

顔面蒼白、苦悶状態、意識障害(+)、嘔気(+)、嘔吐(+)、疼痛(+)、全身冷汗(+++)、胸部痛(++)、意識(+)、血圧一〇〇―五〇

(二) 年後五時一〇分ころの治療・処置

① ポタコールR五〇〇ミリリットル点滴静脈注射の継続

② 心電図モニター

③ 酸素投与の継続

(三) 午後五時一五分ころの症状

血圧五〇ミリHg、嘔気(++)、食物残渣物(+)、意識(-)、全身チアノーゼ(++)、自発呼吸(+)、洞頻脈(一四〇~一六〇/分)

(四) 午後五時一五分ころの治療・処置

① ラクテック五〇〇ミリリットル(電解質輸液)静脈注射

② メイロン(制酸・中和剤)五A側管より静脈注射

③ ポタコールR五〇〇ミリリットル点滴静脈注射(追加)

④ カルチコール(カルシウム製剤)五A側管から静脈注射

(五) 午後五時二五分ころの症状

心室細動となる。

(六) 午後五時三〇分ころの処置

心臓マッサージ開始

(七) 午後五時三〇分ころの症状

呼吸停止、チアノーゼ(+++)、血圧、脈拍測定不能

(八) 午後五時三〇分ころの治療・処置

① 気管内挿管

② バッグによる人工呼吸開始

③ 人工呼吸器による人工呼吸開始

④ カウンターショック一〇回

⑤ 気管内排泄物の吸引数回

⑥ ノルアドレナリン(昇圧剤)六A側管から静脈注射

⑦ プロタノール(昇圧剤・気管支拡張剤)一〇A側管から静脈注射

⑧ 一〇パーセントキシロカイン(抗不整脈剤)点滴静脈注射

⑨ ソル・コーテフ五〇〇ミリグラム点滴静脈注射

⑩ 二パーセントキシロカイン二A側管から静脈注射

(九) 午後六時一六分ころの治療・処置ノルアドレナリン二Aを心腔内注射

(一〇) 午後六時一八分死亡

三  被告の予備的主張

仮に、亡茂雄が急性心筋梗塞ではなく、アナフィラキシーショックに陥っていたとしても、野田医師らには過失がない。

本件において、野田医師らは、急性心筋梗塞に対する処置を採っているが、同時に蜂毒によるアナフィラキシーショックにも通ずる処置をしている。

すなわち、酸素、昇圧剤(イノバン、プロタノール、ノルアドレナリン)及び副腎皮質ステロイド剤(ソル・コーテフ)の投与並びに心臓マッサージ・人工呼吸がそれである。

アナフィラキシーショックでは、死の転機をとることがしばしばあり、本件についても、やむをえない結果といわざるをえない。

四  被告の予備的主張に対する原告の認否

争う。

第三証拠《省略》

理由

一  亡茂雄が、昭和五七年七月二八日午後四時四〇分ころ、被告病院に搬送され、野田医師らの診察・治療を受けたこと、亡茂雄が、同日午後六時一八分、被告病院で死亡したこと及び野田医師らが亡茂雄を急性心筋梗塞と診断したことは、当事者間に争いがない。

二  亡茂雄の症状と診療経過

《証拠省略》すれば、次の事実が認められる。

1  亡茂雄は、昭和五〇年ないし五一年ころ、就寝中に足の裏を蜂に刺されて、蕁麻疹がひどく出たことがあった。

2  亡茂雄は、前記死亡当日の午後四時ころ、自宅近くに置いてある竹の束をワゴン車に積み込む作業をしていたが、暫くして、「蜂に刺された」と言って自宅内に入り、原告良子に対し、「目がかすむ」「目が見えないから車運転できんや」と告げた。

原告良子は、亡茂雄の左脇腹が直径約五センチメートルの大きさで赤く腫れあがっていたため、肥料のアンモニアを水に溶かして同人の右部位に塗ったが、その時、亡茂雄の頸部一面に赤く蕁麻疹が出ていた。亡茂雄は、冷や汗を出しており、風呂場で濡れタオルで体を拭いたりしていたが、落ち着きがなく、そわそわしていた。原告良子が屋敷内の作業場にいた亡茂雄の母を呼んできたとき、亡茂雄は布団の上に身体を横たえたりしていた。亡茂雄の母と原告良子は、相談の結果、ともかく亡茂雄の父に知らせようと一決し、約五キロメートル遠方の友人宅にいた亡茂雄の父に電話をして、同人を帰宅させた。

亡茂雄の父母及び原告良子は、亡茂雄を病院に連れて行くこととし、亡茂雄は自力歩行で屋外に出たが、ワゴン車に近づいたとき、亡茂雄は突如足元から崩れて後ろにいた原告良子の方に倒れかかった。

そこで、只事ではないと感じた原告良子らは、電話で救急車の出動を要請する一方、その到着を待つことなく、原告良子は、亡茂雄をワゴン車に乗せ、亡茂雄の父の運転で、病院に向かった。やがて、対向してくる救急車に出会い、救急隊員は亡茂雄の病状をみたが、一目見て症状が重いとの判断で、亡茂雄を救急車に移乗させることなく、ワゴン車に乗せたままで、救急車が先導して、被告病院に向かった。

亡茂雄は、冷や汗を出し、原告良子に対し、「ウラのホッペを叩け」「力一杯叩け」と叫び、原告良子は、亡茂雄が意識を失うのではないかと感じつつ、横抱きにかかえた亡茂雄の顔を何度となく力を込めて叩いた。

3  午後四時四〇分ころ、被告病院に到着すると、医師ら及び看護婦らが待ち構えていて、直ちに亡茂雄をストレッチャーに移し、病院一階にある救急室に運び込んだ。

診療に当たったのは、院長で一般外科担当の野田医師、外科医長松本憲昌、外科医員大池巡広の三名であったが、原告良子は、医師・看護婦らの誰彼構わず、亡茂雄が蜂に左腹部を刺されてこのような症状になったことを訴えた。

野田医師らは、直ちに亡茂雄の上半身を裸にしたが、同人は、胸部の痛みを訴え、非常に辛そうで、原告良子に対し顔を叩くように求め、一見してショック状態であることが看取された。亡茂雄は、呼吸は早かったが、呼吸困難ではなく、脈拍は非常に早くかつ弱く、血圧は聴診不能で、触診により六六であった。蜂に刺された箇所との訴えのあった左側胸部に発赤や腫張はなく、蕁麻疹様の全身の紅潮や発疹もなかった。

野田医師らは、血圧の測定結果等により亡茂雄がショック状態にあることを確認したので、酸素三リットル/分を投与し、血管確保のために、ポタコールR五〇〇ミリリットル及びソル・コーテフ五〇〇ミリグラムを準備し、点滴を開始する一方、午後四時四五分ころから心電図を撮り、ST上昇及びT逆転が確認された。

そこで、野田医師らは、蜂刺傷によるアナフィラキシーショックというよりも急性心筋梗塞の状態にあると診断し、ポタコールR五〇〇ミリリットル及びイノバン五〇〇ミリグラムを別の箇所から点滴静注し、ソル・コーテフ五〇〇ミリグラムを側注した。その一方、内科の医師を診療に参加させるため、院内放送で内科の医師に来室を求めたが、反応はなく、右のような処置にもかかわらず亡茂雄の症状には改善が見られなかった。野田医師らは、内科の医師の所在を内科外来や病棟の看護婦らに尋ね、またポケットベルで呼出しの処置を執り、医師の自宅へも電話するなどしたが、結局内科の医師の所在はつかめないままであった。

4  野田医師らは、亡茂雄の症状が改善されないため、救急室より設備の充実した四階の重症看護治療室に亡茂雄を移すことを決め、午後五時一〇分ころ、同室に亡茂雄を担送した。

同室における経過は、次のとおりである。

(一)  午後五時一〇分ころ

(1) 亡茂雄の症状

血圧一〇〇―五〇 顔面蒼白、苦悶状態、意識障害(+)、嘔気(+)、嘔吐(+)、疼痛(+)、全身冷汗(+++)、胸部痛(++)。

(2) 治療・処置

① ポタコールR五〇〇ミリリットル 二本

② 心電図モニター

③ 酸素投与(八リットル/分)

(二)  午後五時一五分ころ

(1) 亡茂雄の症状

血圧五〇(触診)、嘔気(++)、食物残渣物多量、意識(-)、全身チアノーゼ(++)、自発呼吸(+)、洞性頻脈

(2) 治療・処置

① ラクテック五〇〇ミリリットル

② メイロン五A側注

③ ポタコールR五〇〇ミリリットル

④ カルチコール五A側注

(三)  午後五時二五分ころ

心室細動となり、心臓マッサージ開始。

(四)  午後五時三〇分ころ

(1) 亡茂雄の症状

呼吸停止、チアノーゼ(+++)、血圧、脈拍測定不能、心室性頻拍、心室細動

(2) 治療・処置

① 気管内挿管

② 呼吸器装置

③ カウンターショック一〇回

④ 気管内排泄物の吸引数回

⑤ ノルアドレナリン六A側注

⑥ プロタノール一〇A側注

⑦ 一〇パーセントキシロカイン点滴静脈注射

⑧ ソル・コーテフ五〇〇ミリグラム点滴静脈注射

⑨ 二パーセントキシロカイン二A側注

(五)  午後六時一六分ころの治療

ノルアドレナリン二Aを注射

(六)  午後六時一八分亡茂雄死亡(この事実は当事者間に争いがない。)

三  原告らは、亡茂雄はアナフィラキシーショックにより死亡したと主張するのに対し、被告は、亡茂雄は急性心筋梗塞により死亡したと主張するので、まずこの点について検討する。

1  《証拠省略》を総合すれば、アナフィラキシーショックについて近時の医学上の知見は次のとおりであることが認められる。

アナフィラキシーとは、抗原抗体反応による症状のうち、抗原投与後急速に発症し、重篤で、ショック様の症状を示すものをいい、しばしば死の転機をとる。

その原因物質の多くは薬物であるが、それ以外の物の一つに蜂の毒腺が挙げられている。蜂刺傷によるアレルギー反応は、典型的なⅠ型アレルギー(アナフィラキシー、IgE依存型)で、蜂毒が過敏症感作物質として作用する機序は、既往の刺傷によりIgE抗体が生じているところに、第二回目の刺傷で病因的抗原が侵入すると、細胞表面で抗原抗体反応が起き、細胞から脱顆粒現象を生じて、ヒスタミン、SRS―A、ECF―Aなどの化学伝達物質が遊離され、その作用によりアレルギー反応が起きる。Ⅰ型アレルギー反応には、遺伝的な素因が関与しているが、遺伝形式はメンデルの法則には従わず、未だ不明のものが多い。節足動物毒は、ヒスタミン、種々のキニン及び他の血管作用物質、ホスホリパーゼやアルロニダーゼを含んでおり、この毒は溶血性及び神経毒であると同時に過敏症感作物質として作用するのである。

アナフィラキシーの初期症状は、顔面又は上半身の紅潮ないし蒼白、全身の蕁麻疹、浮腫、不安感、悪心、嘔気、胸内苦悶、手足のしびれ感、冷汗、目の前が暗くなるような感じなどがあるが、重要症状は循環系の虚脱状態であって、血圧低下、脈拍の頻数と細小であり、典型的な例では、初期症状に続いて顔面蒼白となり、呼吸困難、チアノーゼ、喘息発作、全身けいれん、意識消失を来たし、心拍出力低下、末梢血管虚脱などの循環不全、気管支けいれん、気道粘膜浮腫、舌根沈下などの気道閉塞を起こし、極めて短時間内(五分ないし三〇分)にしばしば死亡に至る。

症状の出現の早いものほど重症で、最初の数分間の処置が予後を決定する。アナフィラキシーショックによる死亡原因の大半は、血圧低下などの循環不全と気道閉塞によるものであり、致命率が高いのは後者で、死亡例の七〇パーセントを占める。したがって、その治療もまた血圧の維持と気道の確保に最大の注意を払うべきものとされる。

死亡例の剖検では、声門・咽頭ないし気道の浮腫、急性肺気腫、脳浮腫、肺水腫などがみられる。

2  一方、《証拠省略》を総合すれば、心筋梗塞に関する近時の医学上の知見は次のとおりであることが認められる。

心筋梗塞は、冠動脈の器質的あるいは機能的な異常(大部分は冠動脈の粥状硬化であるが、血栓による塞栓、先天性異常、大動脈炎、解離性大動脈瘤、冠動脈れん縮などがある)。により、その配下の心筋に不可逆性の心筋虚血変化を生ずる疾患で、激しい胸痛、前胸部の強い重圧感、絞扼感を主症状とする。

一般症状としては、顔面は蒼白となり、冷汗、悪心、嘔吐、めまい、不安感を伴うことが多く、脈拍は小となり頻脈を呈するのが普通であるが、徐脈のこともあり、血圧は一般に下降し、何らかの不整脈が九〇パーセント以上の症例に出現する。重症となれば、起座呼吸、チアノーゼ、ショック症状を来たす。

非典型例の症状としては、心窩部痛などの消化器症状を主症状とするもの、急性左心不全やショックで発症するもの、意識障害が初発症状であるものがある。

心筋梗塞における死亡の二大原因は、不整脈及び急性循環不全であり、急性心筋梗塞における死亡率は二〇ないし三〇パーセントである。

キリップは、循環障害の臨床所見から、急性心筋梗塞を四つの群に分類したが、そのうち第四群(心臓ショック、血圧九〇ミリHg以下で末梢循環障害の徴候《尿量減少、冷たく湿った皮膚、チアノーゼ、意識障害》あり。)の死亡率は、六〇ないし八〇パーセントである。

心筋梗塞を起こしている場合、心電図上の波形は、発症後非常に早い時期に検査すると高くとがったTが認められることがあるが、多くの場合、初めにとらえられる変化はST上昇で、発症後数分ないし数時間で出現し、次いで発症後数時間ないし一日で異常Qが出現する。ST上昇は上方に凸あるいは直線状であり、初期にはこれに陽性のTが続いてST・Tは単相曲線を示す。

これに対し、アナフィラキシーショックの場合には、ST上昇といった心電図上の波形は普通みられない。

3  右1、2で判示したアナフィラキシーショック及び心筋梗塞の各病像に照らして、亡茂雄の死因がそのいずれであるかについて検討すると、前記二で認定した亡茂雄の症状には、蜂による刺傷部位を中心とした発赤、蕁麻疹、落ち着きがなくそわそわする、冷汗、目の前が暗くなるような感じといったアナフィラキシーショックの一般的症状がみられるのであって、亡茂雄が以前に蜂に刺されて蕁麻疹が出たことがあったこと及び本件における亡茂雄の右症状が蜂に刺された直後に発症していることを考え合わせると、亡茂雄の右に判示した状態は、蜂毒によるアナフィラキシーショックであったと認定できる。

しかしながら、前叙のとおり、アナフィラキシーショックによる死亡は発症後五分ないし三〇分といった短時間内に生ずるのに亡茂雄は発症後二時間以上を経過して死に至っていること、アナフィラキシーショックによる死亡例の七〇パーセントが気道閉塞によるのに亡茂雄については気道閉塞による死亡とはみられないこと、亡茂雄の心電図の波形は心筋梗塞のそれであり、救急室及び重症看護治療室における亡茂雄の病状と治療経過は明らかに心筋梗塞のそれを示していることからすれば、亡茂雄の直接死因は急性心筋梗塞であり、アナフィラキシーショックは、亡茂雄の死亡に至る経過において存在したが、亡茂雄の死への寄与があったとしても、死の直接の原因ではないといわなければならない。

そして、本件において原告らが問題とするのは、亡茂雄が被告病院に搬送されたのち、一階救急室における診断及び治療についての被告医師らの過失であるから、以下、この点に絞って更に検討をする。

四  原告らは、被告医師らが亡茂雄の蜂刺傷歴及びアレルギー素因についての問診を怠り、亡茂雄の身体に存在した発赤を看過し、亡茂雄が呼吸困難を訴えて胸の痛みは訴えていないのに、蜂毒によるアナフィラキシーショックを想定も診断もせず、一刻を争う必要な処置であったエピネフリン(アドレナリン)〇・一パーセント液〇・三ないし〇・五ミリリットルの筋注又は皮下注射をせず、もって亡茂雄を死に至らしめたと主張する。

1  一階救急室に亡茂雄が運び込まれたとき同人の身体に発赤が存在したかについて、原告良子本人尋問の結果はこれを肯定するのに対し、証人野田暉夫の証言はこれを否定し、逆に蒼白であったとする。

そして、前掲乙第三号証には、「入院時の一般状態」の「顔貌」の欄に、「紅潮」を丸印で囲み且つ×印で抹消した記載と、「蒼白」「苦悶」を丸印で囲んだ記載とが存在する。

しかしながら、証人野田暉夫の証言及び右乙第三号証の記載によれば、乙第三号証は四階の重症看護治療室への収容を被告病院への入院として取り扱い、午後五時一〇分の右入院に伴い重症看護治療室担当の看護婦が作成した看護記録であることが認められるから、そこに記録された「入院時の一般状態」とは一階救急室における患者の一般状態ではなく、右入院時のそれであって、さきに認定した亡茂雄の病状に照らすと、右「紅潮」への丸印が単なる誤記であることは明らかである。

そして、一階救急室への収容時に、亡茂雄の左側胸部に発赤や腫張がなく、蕁麻疹様の全身の紅潮や発疹もなかったことは、さきに認定したとおりであって、原告良子本人尋問の結果によってもこの点は明らかである。このことからすると、アナフィラキシーショックの発現後の時間の経過に伴い、亡茂雄の身体の状況は刻々に変化していたものであり、収容時又は野田医師らが亡茂雄の心電図上の異常を確認した時点で亡茂雄に上半身及び顔の発赤が存在したかは、必ずしも明らかではないといわなければならない。

2  アナフィラキシーショックにも胸内苦悶や呼吸困難の症状があり、心筋梗塞に激しい胸痛、前胸部の強い重圧感、絞扼感の症状があることは、さきに認定したとおりである。

そして、原告良子本人尋問の結果中には、一階救急室において亡茂雄が「苦しい、息がでけん、死んでまうぞ」と訴えたとの部分がある。

亡茂雄の右のような訴えが呼吸困難を意味するものかそれとも胸部の重圧感や絞扼感を意味するものかは、必ずしも明らかではない。しかしながら、アナフィラキシーショックにおける呼吸困難であるとすれば、前認定のとおり、それは声門・咽頭ないし気道などの浮腫による閉塞のためであると考えられ、医師は患者の訴えをまつまでもなく容易にこれを看取するはずであるが、亡茂雄が呼吸障害の状態になかったこと、野田医師らが気管内挿管をしたのは心室細動を生じた午後五時三〇分にすぎないことは前認定のとおりであるから、亡茂雄の右のような訴えが呼吸困難を意味したかについては疑問である。

一方、胸痛については、原告らはこれを否定するけれども、鑑定人本田正節の鑑定結果によれば、亡茂雄の心電図の波形からみて胸痛が存在したことは明白といわなければならない。

3  野田医師らが亡茂雄の蜂刺傷歴やアレルギー素因についての問診をしたかにつき、原告良子本人尋問の結果においては、同原告は医師らに対し亡茂雄が以前にも蜂に刺されて蕁麻疹が出たことを告げたとするのに対し、証人野田暉夫の証言においては、野田医師は、右についての問診をしたかは記憶がないが、被告病院では毎年蜂刺傷で全身症状の出た患者の診療をしており、アナフィラキシーショックの知識も有し、亡茂雄についてもアナフィラキシーショックの可能性は考慮に入れたが、心電図検査の結果等からその診断は否定したとしている。

これからすると、野田医師らは、アナフィラキシーショックについては、その可能性も検討したものの、その診断を採用しなかったものであって、亡茂雄の蜂刺傷既往歴について意識的に問診をしたとしても、結果は同じであったということになる。

したがって、野田医師らの診断及び治療に臨床医としての注意義務違反があったかどうかは、救急室における亡茂雄の病状に照らして、診断と治療に適切さを欠いたか、また原告ら主張の処置をとれば亡茂雄を救命することができたかの問題に帰着する。

4  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(一)  エピネフリンは、副腎髄質ホルモン剤であって、作用は、循環系に対するもの、血管以外の平滑筋に対するもの及び代謝に対するものがある。

循環系に対する作用としては、心臓に対しては、心拍数を増加させ、心筋の収縮力を強め、心拍出量を増大するので強心作用を現わす。血管に対しては、収縮作用と拡張作用の両方を現わし、心臓の冠動脈を拡張し、皮膚毛細血管を収縮させ末梢抵抗を増加させて、血圧を上昇させる。

血管以外の平滑筋に対する作用としては、気管支筋に対しては、弛緩作用を現わし、気管支を拡張させ、呼吸量を増加させる。

注射液の適応は、気管支喘息・百日咳などに伴う気管支けいれん、各種疾患もしくは状態に伴う急性低血圧又はショック時の補助治療等である。

エピネフリンには血管収縮作用のほか気管支拡張作用もあるので、アナフィラキシーショックの救急治療の第一選択剤とされているが、初期治療の後は他の昇圧剤を用いるべきとされる。肺気腫のある患者や心疾患のある患者には慎重投与が必要とされ、副作用には、ときに胸内苦悶、不整脈、顔面紅潮・蒼白、呼吸困難症等の症状が現われることがあり、過量投与ではときに心室細動、頭痛、肺水腫等の症状が現われることがある。

(二)  バラチらは、密蜂に刺されて急性発症の重篤な呼吸困難、発疹、掻痒、めまいに襲われた患者に対し、エピネフリン〇・一パーセント液〇・三ミリグラムを皮下注射したが、一〇分後も重篤な呼吸困難と低血圧が続いたため、塩酸ジフエンヒドラミン五〇ミリグラムの筋肉内注射とエピネフリン〇・一パーセント液〇・五ミリグラムを三分間かけて静脈注射したところ、後者が終ってすぐに血圧は九〇―六〇ミリHgから二一〇―一〇〇ミリHgに、心拍数は八四から一二〇に増加し、患者は前胸部に極度の押し潰されるような痛みを訴え、呼吸困難と不安が増加し、心電図ではST上昇を伴った(のちにST異常は消失したが)洞性頻脈がみられ、急性心筋障害が疑われた例を報告し、臨床的に、エピネフリン静注は、不整脈、心筋虚血や梗塞を誘引するとして、厳重な注意のもとに少量をゆっくりと静注することを推唱している。

5  以上に判示したところによれば、重症のアナフィラキシーショックにおいては、血圧の維持と気道の確保が必要であって、そのためにエピネフリンが第一選択剤とされ、最初の数分間の処置が予後を決するとされるのであるから、ショック発症直後にアナフィラキシーショックとの診断が得られた場合には、エピネフリンの投与が最優先の医療処置となる。

しかしながら、医師にとっては、自ら認識しうる限りの患者の心身の状態及び知りうる限りの患者の既往歴に基づいて、救急状態にある患者にとって何が最も必要な医療処置であるかを判断し、その処置を行うことがその業務上の義務であるところ、エピネフリンにも前叙のとおりの副作用は存在するし、本件においては蜂の刺傷を受けてから相当時間が経過していたのであり、呼吸困難や蕁麻疹様の発疹といったアナフィラキシーショック診断の手掛かりとなる顕著な症状は認識されなかったのであるから、重い症状であった亡茂雄に対し、その症状を改善するのに必要で相当な処置を執ったものである限り、アナフィラキシーショックの診断を否定したこと及びエピネフリンの筋注又は皮下注射をしなかったことをもって、直ちに過失ありということはできないものといわなければならない。

そして、《証拠省略》によれば、ショック状態にある患者に対する緊急治療の原則は、換気の確保、輸液及び心拍出量の増加と昇圧であり、ショック時の循環動態はショックを起こした原因及び病期によって異なるので、昇圧剤の選択及び使用時期については十注意すべきであること、野田医師らが亡茂雄に対して投与した薬剤のうち、ポタコールは電解質及び糖分の補給用、イノバン(ドーパミン)は昇圧剤で、ノルエピネフリンとイソプロテレノールの両方の利点を有し、心収縮力及び腎血流量を増加させ、頻脈の発生は少ないこと、ソル・コーテフ(ヒドロコルチゾン、副腎皮質ホルモン剤)は心筋の保護作用があり、ショック状態を改善する作用があること、イノバンに副腎皮質ステロイド剤を併用するとショックに対する作用が増強されること、ノルエピネフリン(ノルアドレナリン)は、エピネフリンより作用がやや弱く、心機能に対しては、心拍数は減少(エピネフリンでは増加)、心拍出量は不変又は減少(エピネフリンでは増加)であるが、一回拍出量、冠血流量及び不整脈についてはエピネフリンと同様の増加があり、血圧(平均)に対してはエピネフリンよりも増加の作用があり、末梢循環に対しては、末梢抵抗を増大させる作用があって、アナフィラキシーショック及び心原性ショックのいずれに対しても有効であること、心筋梗塞にエピネフリンを投与すると、心室性不整脈を発生し、心室細動に移行することがあるので、アナフィラキシーショックに続いて心筋梗塞を起こした場合にはエピネフリンを注射するのは危険であること、補液及び副腎皮質ステロイド剤の投与もアナフィラキシーショックと心原性ショックのいずれに対しても改善の作用があること、亡茂雄について心筋梗塞の発症に至った機序としては、全身アナフィラキシーが時間の経過に従って組織障害を起こし、循環器系の虚脱状態や冠動脈れん縮が起こり、心筋梗塞を惹起したということも考えられるし、アナフィラキシーのために血液の凝固因子が働き、心臓の血管を詰まらせて発症したことも考えられること、一階救急室における処置の結果、四階重症看護治療室へ担送した午後五時一〇分には血圧最大一〇〇―最小五〇と改善がみられたこと、一階救急室におけるイノバン及びソル・コーテフの投与量は有効量であり、適切であったことが認められる。

6  以上を総合すると、一階救急室で心電図検査を受けた時点では、明らかな急性心筋梗塞の所見を呈しており、蜂毒による全身アナフィラキシーの段階は既に終了し、アナフィラキシーに伴う心臓血管障害が発生したために心筋梗塞を起こし、二次的に心原性ショックを発現していたものであり、これに対して投与されたポタコール、イノバン及びソル・コーテフとその量は有効適切であったもので、エピネフリンを投与すれば救命し得たがイノバン及びソル・コーテフを投与したために救命し得なかったとの認定は不可能であるといわなければならない。

そして、四階重症看護治療室へ担送後の処置については《証拠省略》によればいずれも適切であると認めることができる。

六  以上の認定及び判断の結果によれば、原告らの請求はその余を判断するまでもなく理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 稲守孝夫 裁判官 木下徹信 裁判官飯塚宏は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 稲守孝夫)

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